第一節 声明の語源とその変遷

声明という語は梵語sabda-vidyaの漢訳で、インドでは古代婆羅門教徒が一般教養として習得しなければならない五明の一つをいいます。五明とはインドの学問を五種に分類したもので、声明(言語、音韻、文字を明らかにする学問)、工巧明(諸種の工芸、技術、暦数に関する学問)、医方明(医学、薬学など医術を明らかにする学問)、因明(正邪を考究して真偽を明らかにする学問、いわばインド論理学)、内明(仏教の真理、特に自宗の義を明らかにする学問)の五つをいいます。これによってわかるように声明という語は、インドでは文字、音韻、語法等の学問の意味だったのです。中国では文字、音韻、語法等インドと異なっている関係で、五明の学習は行われなかったのですが、唐の時代に玄装三蔵等が梵学を伝え、更に密教の流伝によって梵字、悉曇の学が勃興したように、声明の語はやはり言語の音韻学的性格のものであったのです。一方、円仁の「入唐求法巡礼行記」には、中国にも梵唄とか梵と呼ばれる音声があったことが書かれています。これら梵唄とか声明とかの語が日本にやってきて、声明という語が梵唄より仏教音楽の歌詠として広く用いられるようになったのは、平安朝期のことでした。最澄、空海が入唐して悉曇の法を伝え、東寺においてその学習が行われた時期もありましたが、その後は唯、梵字の書写や梵讃等の読誦が目的となり、また古くより梵讃等の諷唱歌詠の法が伝えられていたので、声明の名称はついに本来の意義を離れて、梵唄と同義に用いられるようになったのです。虎関師錬の「元亨釈書」第二十九音芸志には「声明とは印土の名であって五明の一つである。支那(中国)では偏に梵唄という。本朝(日本)では遠く印土の名をとる。」と記されています。しかしながら鎌倉期の大学匠東大寺凝然は「声明源流記」に、我国の声明を論求して、「日本の声明は印度五明の随一としての意味とは異なるが、音韻を精しく理解することは彼の印度の声明に似る」と言っています。声明の源流を考える時、梵曲を声明と称しても全く不相応の名でないことがわかります