第二節 中国の声明
「元亨釈書」巻29音芸志によれば、中国の声明は曹陳王により端を発するとあるように、声明音楽として梵唄を製作整理されたのは、魏の文帝黄武4年(225)武帝の第四子陳思王曹植です。文学の大天才であった曹植が山東省泰安県にある魚山に遊んだ時、空中に梵天の響を聞いて梵唄を作ったということです。(法苑珠林巻36、仏祖統紀第35、魏志巻19、広弘明集巻5、釈氏要覧上、梁高僧伝巻13)。このように陳思王曹植が梵唄形式の端を開き、その後、多くの声明研究家が種々改良を加え、隋を経て唐に至り、声明の開花を見るに至ったのです。唐代以前には康僧会が梵唄を伝えた人として有名であり、帛法橋は「晝夜諷詠して哀婉神に通じ、年九十に至りしも声はなお変らず」と「高僧伝」の経師篇に伝えています。経師㊟(1)篇にはその他、支曇籥(晋)、康法平(宋)、僧𩜙(宋)、道彗(宋)、智宗(宗)、曇遷(斉)、曇智(斉)、僧(斉)、曇憑(鼻)、彗忍(斉)等の経師と呼ばれる法儀家が名を連ねています。また唐代の智昇は「集諸経礼讃儀」を撰述し、法照は五会念仏を勧め、善無畏は密教儀式を示すなど、唐代(618~907)には国家の支持もあって声明も隆盛となったのですが、武宗の845年(会昌5)の弾圧以降振わなくなったのです
㊟(1)〔経師〕 経文読誦吟諷する法師をいいます。