第三節 日本当初の声明
奈良時代になって遣唐使の派遣と唐僧の来朝にともない、法会儀式も次第に整備されました。720年(養老4)には唐僧道栄の音曲に基づいて「天経唱礼」㊟(2)を正す詔勅が出されています(「続日本記」)。736年(天平8)には道璿が菩提仙那と共に来朝し、752年(天平勝宝4)東大寺大仏開眼供養の時の呪願師となっています。この東大寺大仏開眼供養には、梵音200人、錫杖200人、唄10人、散華10人とし、同天平勝宝6年の戒壇院供養には梵音32人、錫杖32人が参加(「東大寺要録」)とあり、すでに梵音、錫杖、散華、唄といった四箇法要が厳修されています。
平安時代になると、最澄や空海が入唐して、それぞれ天台、真言の二宗を興し、その教義と共に法儀を伝えましたが、当時はなお南都諸宗と天台真言の二宗との声明に多くのへだたりはなかったのです。なぜなら794年(円暦13)九月延暦寺供養会の時に、東大寺、法隆寺、元興寺、大安寺の諸師が比叡山の職衆と共に四箇を唄っています。また824年(天長1)9月大講堂供養には西大寺や薬師寺の職衆と比叡山の式衆が共に修行しています。また834年(承和1)3月西塔院供養には、空海が六弟子をしたがえ、東大寺安恵も共に比叡山の職衆と四箇法要を厳修しています。凝然の「声明源流記」にも、四箇法要は古来通行の規式であると言っています。
㊟(2)〔転経〕 大般若を転読し、表白終った後、唱礼師が五悔、五大願等の文を唱えることをいいます。