第四節 真言宗の声明

南都諸宗、天台宗、真言宗の声明がそれぞれ次第に離れていきました。そのうち真言声明が確立したのは、空海の弟子の新雅から五代目に当る寛朝からと言われます。寛朝(916~998)は、のちに真言声明中興の祖と仰がれるように、諸声明を整理し、墨譜を附し、諸儀式の声明を制定し、仁和寺にその流儀を伝えたのです。一方、寛朝の弟弟子に当る元果は醍醐寺にその門流を築きました。元果の六代目の弟子に中ノ川実範がいますが、その弟子の宗観は大進上人と尊ばれ、その門にあった観験らの派を進流と称したのです。「魚山私抄」下によれば、1147年(久安3)に鳥羽帝の第五皇子覚性法親王の時に、仁和寺大聖院に於て、定遍権僧正、能覚法印、観験上人等の碩徳十五人が会合され、真言声明を統制し、各派を判然と区別されたのです。それを図示する と、

 

 

となり、三派のうち相応院流を更に二派に分け、都合四派を制定しました。このことは「密宗声明系譜」「唯密声明諸歌口伝」にも縷術されています。1233年(貞永1)高野山三宝院の勝心の懇請によって、観験の甥弟子に当る慈業が進流を伝え、それより高野山の声明を南山進流といいます。

其後、醍醐流は早くから行われなくなり、菩提院、西方院流も衰微し、現在は進流のみ、すなわち、南山進流の声明として存続しています。今に伝えられる仁和寺、醍醐寺の声明は進流と多少の相違が認められますが、別に一派を形成する程のものではありません