第五節 天台宗の声明

天台宗の声明は慈覚大師円仁に始まると言うのが通説となっています。これは慈鏡の「声訣書」の中、顕流智明伝来事の條に「慈覚大師入唐求法の時かたわら是の法を伝う、智証大師帰りてこれを付す」とするのが根拠となっています。しかし、伝教大師に於ても帰朝後809年(大同4)2月一乗止観院にて法華三昧を厳修したと伝えられ、また「元亨釈書」には十講法会(3)を立てて灌頂の相伝があったと伝えていますが、その確実な記録としては不明なのです。「入唐求法巡礼行記」には、慈覚大師円仁は838年(承和5)入唐して揚州赤山院にて声明の法を学び、五台山竹林寺に登って法道和尚から当時流行の法照の五会念仏及び引声阿弥陀経の法を受け、十年に及ぶ中国での留学を終えたのです。そして、唐代の仏教儀式を研究錬磨し、それまでの奈良声明の他に、密教系と浄土系の方式を伝えたのです。さらに比叡山三世座主となった円仁は、教学の画期的発展を行うと共に、声明においては引声念仏を相承され、その他五箇の秘曲と称せられる長引九條錫杖、独行懺法、羅漢勸請、長音供養文、梵網戒品を伝え、また云何唄、始段唄、異説唄、譜賢讃、千手教化、散華、警覚真言、三十二相、例示懺法の秘曲等を伝えたと言われるように、声明形式を確立されたことは日本の声明史上、大なるものがあります。円仁の門下に智証大師円珍、湛芸、安芸、安恵、相応、日蔵らがおり、円珍はのちに園城寺を創建して、寺門流の伝統を築いたのです。安恵の門下には安然がおり、安然は悉曇、声明に通じ「悉曇蔵」を著わして音階の説を立てたのです。

慈覚大師以後の相承について「元亨釈書」巻29には、慈覚、智証、相応、浄蔵、慈恵、源信、覚超、懐空、寛誓、良忍と相始者次第しています。このうち、第五代慈恵大師良源は論議の創始者として、また声明史、日本仏教史上、価値ある資料となっている「本覚讃」の著作があり、第六代源信(942~1017)は、往生要集六巻を作り、浄土教の信仰を鼓吹し、他に多数の著作があります。中でも声明について見れば、「六道講式」「極楽六時讃」「天台大師和讃」「来迎和讃」「山王和讃」「弥勒讃」等多くの講式、和讃の製作があり、後の永観、明恵らの諸講式に大きな影響を与えたのです。第七代覚超は「弥陀如来和讃」を残されました。第十代良忍(1072~1132)は、天台声明中興の祖といわれるように、天台声明を統一し大成された方であります。すなわち鳥羽天皇天仁2年(1109)大原に来迎院を建立して声明の根本道場となし、融通念仏を唱導しながら、六流に分かれていた諸声明を統一し、墨譜を畫畫した功績は不滅のものでありましょう。彼の改革した一つには、従来使用した五音博士を目安博士と称する音符に代えたことです。これについては、「博士について」の項で述べたいと思います。このように良忍によって、天台声明は延暦寺から大原に移って大原流と称せられたのです。良忍の門には頼澄を筆頭にして後白河法皇に声明の秘曲を伝授された家寛がいます。さらに永縁ら十高弟がいます。頼澄の門には玄澄、有安、後白河院がいて、家寛の門には智俊、湛智、宗快と次第し、大原の主流をなしたのです。他方、永縁は勝林院に本家を構えました。こうした大原の地は別名「魚山」ともいわれますが、これは中国声明の聖地「魚山」になぞらえたもので、大原の地は比叡山の西北に位し、中国天台山の西北なる大原山に擬して名づけたといわれ、呂の川、津の川の清流に加え、幽閑の地であり、そうした「魚山」の雰囲気をかもしだしている場所でもあるからです。この大原声明の流れが、のちに浄土宗、浄土真宗、日蓮宗の声明へと発展して行ったのです。

(3)〔十講法会〕 無量義経一巻、法華経八巻、普賢経一巻の十巻を五日十座に講ずる法会をいいます。