第六節 浄土宗の声明

宗祖法然は、師の叡空から天台を学び、四修三昧を修したことは「勅伝」に記されています。また師の叡空は魚山大原声明の祖と仰がれた良忍の高弟であり、声明の達者でもあったのですから、法然が叡空から声明の薫陶を受けたのは当然です。「勅伝」巻9の如法経修行の條によると、法然が後白河法皇と共に如法経の導師を勤められ、錫杖及び懺法を句頭されていることは、その証拠を示すものであります。また真如堂の引声念仏を六代の静真より相承されたと「脈譜」に伝えています。法然は専修念仏を唱導された後も、引声念仏を修され、往生礼讃を門弟と共に行っていますが、こうしたことは浄土宗音声の基本となっているのです。

浄土宗の声明には祖山流(知恩院)、鎌倉流(光明寺)、縁山流(増上寺)の三つの系統があります。以下それについて述べてみたいと思います。

(イ)祖山流(知恩院)は、天台宗大原流を踏襲したもので、比叡山に近いため、常に天台宗と交流し、指南を仰いだのです。その結果あまり大きな相違は見られず、ただ発声法に多少の相違が見られる程度です。すなわち、祖山流は大原流声明よりテンポが長く、声も大きくなっているのが特徴とされています。

(ロ)鎌倉流(光明寺)は、光明寺八代観誉祐崇が、人皇百二代後土御門天皇明応4年(1495)に宮中に召され、37日の間、阿弥陀経を講説され、更に京都黒谷にある天台宗真正極楽寺真如堂の例時作法、引声阿弥陀経、引声念仏を、真如堂の大衆と共に行われ、のちに天皇の勅許を蒙りて、光明寺に移して引声阿弥陀経、引声念仏の十夜法要が毎年営まれるようになったのです。

観誉祐崇より光明寺に伝えられた十夜法要も、二百有余年後になると衰微し、中御門天皇亨保11年(1726)常陸の瓜連常福寺の義誉観徹が光明寺五十七代を継がれ、十夜法要の復興をはかられたのです。「刻引声阿弥陀経跋」によると、義誉観徹は、亨保10年三人の弟子を京都に使わして、引声阿弥陀経を研究させたのです。それ以来今日まで、古式による十夜法要が存続しているのです。

この十夜法要は、例時作法の差定より抜粋して、十夜法要の差定となったようです。すなわち、例時作法の差定は、

○三礼

○三帰

○七仏通戒偈(4)(仏教の戒・倫理を説く偈)

○黄昏偈

○六為(四恩三有(5)に廻願する)

○四奉請

○甲念仏

○阿弥陀経

○甲念仏

○合殺(引声念仏のこと)

○回向

○後唄

と次第し、初夜及び晨朝の差定は、

○三礼

○七仏通戒偈

○初夜(晨朝)偈

○九声念仏(引声念仏と調子が類似)

○神分(6) 霊分(7) 祈願

○大懺悔

○五念門

の順で次第しています。一方、十夜法要引声の差定は、

○三礼

○四奉請(登高座 洒水)

○甲念仏(前伽陀)(献供)

○阿弥陀経(一節)笏入る

○甲念仏(後伽陀)

○回向

○五念仏(晨朝礼讃偈)香版行道始める

○引声念仏 香版行道続く

○六字詰念仏 着座する

○十念

○授与十念

○三礼 と次第します。今日も10月13日、14日の日中法要はこの差定にて厳修されています。明治時代は十夜法要を10月6日より15日までの10日間、厳修していましたが、現今は12日初夜より15日晨朝までの法要となっています。初夜及び晨朝法要差定は、

○三礼

○四奉請(譜節も簡なるもの)洒水 献供

○甲念仏(譜節も簡なるもの)

○阿弥陀経 全部割笏にて香版行道

○引声念仏

○六字詰念仏

○十念

○授与十念

○三礼

という法要次第で厳修されています。

(ハ)縁山流(増上寺)声明は、天正18年(1590)に徳川家康公が関東に入城して、増上寺が徳川家の菩提寺として幕府の庇護を受けるようになってから、順次縁山流独特の声明となって発展していったのです。増上寺第十二代譜光観智国師存応は、家康の厚い帰依を受け、家康の愛好した声明には特に注目し、徳川家法要に際し注意を払ったのでした。1608年(慶長13)9月、存応の弟子廓山は、家康から、家康の生母水野氏の菩提寺伝通院に招請されています。そして寺領三百石を寄進され、十八檀林の一つとし、所化三百人を附属されています。廓山は師の存応と共に、しばしば江戸城において法問を行い、厚い信頼を得ていたのです。同年11月幕府は、廓山等を江戸城に召し、日蓮宗日経と論議させ、廓山は浄土宗側を代表して勝利をおさめました。以後、家康の一層の信頼を得たのです。廓山は伝通院入山後、幕府と縁山の要望に応えて、了的と共に南都へ趣き、法相宗を学び、東大寺、興福寺の法式声明を調査し、法儀の研究につとめ、浄土宗法式が形成されましたが、なお大法会には魚山声明を用いていたのです。1614年(慶長19)8月、伝通院殿水野氏十三回忌法要に際し、家康の要望に応えて法式に声明を行じ、これ以後、徳川家の法要には声明を欠くことがなく、次第に山内に声明研究家が増加していったのです。

寛永年中(1624~1643)幕府老臣酒井雅楽頭忠世は、将軍家の意を受け、増上寺側と協議し、京都黒谷の名手貞保、戒順、秀白等を縁山に招待したのです。貞保は月窓院、戒順は常行院を開いて、山内に伝承されていた宗祖法然伝承の往生礼讃及び引声念仏といった声明と合流し、これを縁山声明と称していました。

増上寺二十三代遵誉貴屋は、1652年(承応1)祟源院殿二十七回忌法要に際し、声明儀式の整頓の必要を感じ、また将軍家菩提寺として権威を保つため、大原の向ひ坊、恵隆僧都を招きました。1653年(承応2)には、恵隆僧都は名手十余名を伴って来山されたのです。その中で林的、雲貞、源良は特に有名で、林的は光学院、雲貞は華養院、源良は隆祟院を山内に開いています。こうして増上寺山内坊中寺院一体となって、増上寺独特の声明を完成する努力がなされ、その結果、今日のような大原流声明を基調とした豪壮でしかも幽韻な、はぎれのよい関東流声明を確立し、将軍家菩提寺声明として教界を風靡するに至ったのです。幕府はこれに応えて、山内に声明長屋といわれる練習道場を造り、一千石を与えてその盛行を期したのです。

縁山弥陀懺法は仁和寺密唄の精式を伝えるといわれますが、天保年間、縁山に留学された第六代門跡尊超法親王は、増上寺において、たびたび句頭役を務められ、その声明は異彩をはなち、天下無双と讃えられたのです。その後、増上寺声明は三十坊の声明衆の伝承によって継続され、また坊中三十坊は声明式典の器でないものは住職できなかった程、精進し、その整頓された関東流声明を明治維新まで伝えていったのです。なお、声明は徳川家法要のみ修行されたのですが、元禄十年正月円光大師号下賜御忌会と勅会には勤修されるようになったのです。

明治維新には、時世の変遷により、法式及び声明も衰頽の一途をたどったのです。その間およそ50年、明治6年(1873)12月31日夜半、増上寺は江戸時代初期の代表的文化財であった大殿を狂人の放火で焼失したのです。それにともない鐘樓堂、台徳院殿御霊屋、旧番所等を灰盡と化したのです。その後も再建された大殿が、また明治42年4月1日に出火し、大殿の他、護国殿、大方丈、通天橋、飛雲閣を全焼したのです。そうした増上寺の災厄もあってか、声明も苦難の道をたどりました。しかしながら明治仏教の巨匠福田行誠は、法要儀式に注意を怠らず声明道を策励させたのです。声明の達者としては、明治初期から中期までは、浄運院貫学が知られ、中期には、別所亮迪、小篠隆進、千葉寛鳳、真野観堂らが声明の達者といわれ、この中、特に千葉寛鳳は山内広度院、安養院に住職し、当時の法式研究家だったのです。その養子千葉満定は師の法式研究を継いで明治末期及び大正、昭和にかけて縁山法務の職にあり、そのかたわら、法式の実務指導にあたり、特に音声方面において活躍され、一家の風格をなしたのです。師は一宗法要の制定に、伝統保持に努力され、また師を中心とした東京法式会は「浄土宗法式精要」、「浄土宗法式大観」、「浄土宗法要及び声明」、「礼讃声明音譜」(大正13年9月)(法式の洋楽譜の作成)といった法式学、音声楽についての編著を生み、今もなお私たちの教材として欠かせないものなのです。

師の門下には、津田徳成、堀井慶雅、八百谷順応等の俊足が輩出し、後進の指導育成に努力されたのです。また中野隆元は明治、大正、昭和期にまたがって、浄土宗教師として大なる働きをされ、そのかたわら、千葉満定と共に「法要儀式精要」の編著を昭和八年刊行されています。これは浄土宗教学体系の中に組みこまれ、近年再刊されています。

法式協会は「礼讃声明音譜」作成後、「宗定法要集」「礼讃声明集」を引続いて発刊し、統一と流伝のための努力がなされています。また堀井慶雅を中心として、東京法式会有志は、第二次大戦に突入した昭和十七年二月、縁山流声明を主とする浄土宗法式音声の録音を行っています。ところが、そのほとんどが戦災のため焼失し、残ったものは音盤の品質不良、雑音の甚だしいものばかりでした。しかし、大戦後20年を経た昭和40年4月、照善寺田丸徳成師は増上寺御忌唱導師を勤められ、その記念として絶本となっていた「礼讃声明音譜」を再刊し、引続いて堀井慶雅を中心とした「縁山流声明録音」の再生と共に、脱漏分の声明を新たに加えて「浄土宗声明音譜」として、昭和40年12月に完成されています。

昭和46年4月17日には釈尊隆誕花まつり特別公演が挙行され、読売新聞社、財団法人全日本仏教会、大本山増上寺が後援者となって、浄土宗の声明、涅槃交響曲(作曲指揮、黛敏郎)の公演があり、そこで「縁山流声明」は好評を博しました。

昭和46年10月1日、2日には国立劇場にて第六回公演「引声」の声明公演があり、真如堂と光明寺の引声が催され、真如堂と光明寺の引声の相違が聞く者に感銘を与えました。これには大本山増上寺式衆の応援もありましたが、鎌倉流の引声の特徴をいかんなく発揮されたのです。

昭和49年には宗祖法然が43才の時浄土宗を開かれてより800年となり、総本山知恩院並に各大本山において、浄土開宗八百年慶讃法要が厳修されました。また同時に、浄土宗関係の書物も多く刊行され、声明においては、浄土開宗八百年記念として「念仏」という表題で浄土宗の声明が録音されています。そこには、祖山流(知恩院)のものと、縁山流(増上寺)のものとが合わせレコードに吹き込まれました。増上寺も昭和20年に戦災に遭遇し、またまた大本堂その他を焼失してしまったのですが、昭和49年大本堂が完成し、開宗八百年記念に盛大な法要が営まれました。その後も毎年4月14日、15日、16日の3日間行われている御忌法要のために、声明の習練が行われていますが、声明を実際に唄う機会がもっと多くある事が望まれます。