第七節 引声伝承について

平安時代末期に良忍が出て、円仁以来六流に分かれて伝承された声明を統一し、大成されたことは前にも述べました。次の鎌倉期になると、2人の天才的声明家が出て、声明に一大変革をもたらしました。良忍の門下は家寛、智俊と次第しますが、その智俊の弟子蓮入房湛智が出て、声明に雅楽の理論(特に横笛の譜)を導入して一流を起し、それを新流と称したのです。この湛智はこの時期最大の名手であり、声明のみならず当代音楽全般にわたって精通していたことが知られ、その著作には声明目録、声明用心集、声明集の三部があり、新流における声明の全要領が明かされています。「野守鏡」によれば、天台声明の中心地である大原声明の旋律が大きく変ったのも、もとはと言えば蓮入房という人がいて、世俗の音楽に似せて仏教聖歌をやりだしたからであり、平安時代の中期に出現した大家の良忍の貴重な伝統が失われてしまったと述べています。一方、やはり智俊の弟子であり、古くからの伝統に忠実であった蓮界房浄心がいます。この浄心の派を古流と呼びますが、この浄心は勿論声明の名手であり、口伝口授を貴んだのでした。この新流、古流という二派は、互に論陣をはったのでしたが、古い伝統を正しく後世に残そうとする古流がいくばくもなく亡び、逆に古格を必ずしも残そうとしないで、時代の要求に相応して変化を持たせていった新流が今日まで残ったのでした。このように、その後の大原流声明は湛智の流れを汲む声明となり、円仁以来から平安末期までの声明の古格は、大原流にはほとんど消失したのです。

ところが、引声阿弥陀経だけは、このような大原声明に左右されないで、円仁以来の古格を残して今日まで伝承されて来たところがあります。それが鳥取の大山寺、黒谷の真如堂、鎌倉の光明寺の三ヵ所を挙げることが出来ます。すなわち、引声は比叡山や大原をはじめとして広く行われていたはずですが、多くは時代と共に廃絶の状態となったのです。今に残る延暦寺や大原寺の魚山流引声阿弥陀経は、湛智の行った変革をこうむって、円仁以来の古格を残すものではないのです。ところが、大山寺の伝承だけは、一般の大原流声明とは全く異なり、湛智の変革に遭遇してない唯一の確実な所伝であると考えられています。また、真如堂の所伝については、それが古来鈴山流と呼ばれたのですが、はたして魚山流、大山流のいずれに近かったものか、あるいは独自のものであったかは、今日もなお判然としないのです。真如堂のものが室町時代に鎌倉の光明寺に伝承され、その後光明寺では伝承があいまいとなり、江戸時代に至り再び京都より伝承して伝えているのが今日の光明寺の引声であります。ところが明治になって真如堂のものがあやしくなって、多紀道忍氏が大山流を学んで再興したのです。今、大山流引声阿弥陀経の跋文によってその過程を知ることができます。その大意(8)を示すと、

「明治四十四年六月に安楽律院(比叡山)の矢野霊澄師についてこれを相承した。師は長らく大山寺にあってその引声を伝えた稀なる人であるが、平素これを伝えるべき弟子がないことを歎かれていた。そこで私は同志をかたらって、この年の五月一日から六月二十五日の間にこれを相承し、譜本を浄写した。その同志とは大館禅操(大山寺)、竹内道忍(のちに多紀姓となる)、岩田教円の三名である。云云」

とあるように、大山流が多紀氏を介して真如堂に伝承された過程が察せられます。従って今日真如堂に行われている引声は大山流であり、古来真如堂で行われていた引声の少なくとも江戸時代の姿が今日鎌倉光明寺に残っている引声ということになります。そして大山流の伝承は大館禅操氏の死亡によって、今から四十年前に亡びてしまったのです。従って今日円仁以来の古格を残しているものは、大山流の引声の伝承を受け継いだ真如堂の引声が、確実に円仁以来の古式を物語るものということになります。

今日の真如堂に伝わる引声と鎌倉光明寺に伝わる引声を比較してみると、真如堂の譜本と光明寺亨保十年版の譜本とは、あまり似ていません。ところが真如堂の短声の譜本と光明寺の引声の譜本とが酷似しています。この点をどう理解すべきでしょうか。慈覚大師が伝えたという阿弥陀経は、引声と短声があったことは知られています。しかし、理解に苦しみますが、順当に考えるならば、真如堂から伝習して来て光明寺に伝承されたのは短声であったが、それを引声として扱かったのであろうと思います。関東の言葉は、はぎれよく、縁山声明で言えば、「四智讃」を例にとると、大原流では「オーン、バー、サー」と各音声が流麗な波をなしているのに対して縁山流では「オンバサー」と続けてしかも強い当りで、一息で終り、そのテンポは大原流の三分の一になっています。このように関東では、短声流ともいうような早いテンポが好まれていることを考えると理解できるような気が致します。

なお、真如堂においては、引声は「引声法要(10月10日~17日)」、十夜念仏は「お十夜法要(11月5日~15日)」と各々別の日に行われていますが、光明寺では引声と十夜念仏が同じ「お十夜(10月12日~15日)」として行われています。

以上のように、声明の歴史をインドより中国を経て日本までの経過をたどり、縁山流声明が徳川時代に至って、徳川家の庇護のもとに、独特の声明となっていった過程を述べました。そこには、真如堂より伝承された光明寺の十夜法要も、増上寺で行われている御忌法要も、引声阿弥陀経、引声念仏といったたぐいの「引声」が土台となって法要儀式が営まれていることに気づくのです。そこで第七節に至り、引声の伝承過程を取り上げ、大山寺、真如堂、光明寺の引声が互に関係しながら伝承されて来たこと及び、大山流の引声が、円仁以来の古格を残すものであることを述べ、しかも、光明寺の引声が、真如堂の短声と酷似していることを述べました。これは縁山の引声においても同じことが言えるのです。かくして、私たちは声明の歴史を一応理解できたことと思います。次には声明の理論と実際について述べたいと思います。

(8)〔その大意〕「大山流引声阿弥陀経の跋文」の大意については、国立劇場第六回声明公演「引声」の解説書中、片岡義道氏の「引声について」に述べています。