駒込天然寺は、浅草聖徳寺の末寺で、南千住公春院と姉妹寺院であった。
由緒は、堀丹後守殿家中平井太郎右衛門末孫、平井直衛の開基により、寛永三年(1626年)に創立し、然蓮社天誉自性秀公和尚が開山され、然蓮社天誉の名から、天然寺と名付けられたと伝えられている。
ところが、元禄八年(1695年)浄土宗の総録所江戸増上寺では、門末寺院由緒の全国調査が企画され、元禄十一年に完成した『蓮門精舎旧詞』によれば、
「天然寺明窓山薫光院同末 同州駒込村 開山然蓮社天誉周山 生所同所 氏高木氏 修学、檀林伝通院 寛永三柄寅年起立 至今柄子七十一年也、由緒者堀丹後守殿家中平井太郎右衛門建立末孫千今檀那也」
とあり、今に伝えられる薫香院が薫光院、開祖天誉周山となっている。この資料は一番古く、天然寺が起立して七十一年後の記録である。
『文政寺社書上』によると、「起立は寛永年中と申し伝へ、委細は書き留める等これなき候故、分明は相知らず申さず候、唯これを申し伝ふ」とある。
この頃には既に当時の起立について明らかでなかったようである。また同書は明窓山薫香院天然寺とあり、文政時代はこの薫香院という字が使われていたようである。
なお開山天誉周公は出生地が同所とあり、姓は高木氏とあるところから、この附近一帯に土地を持つ名主高木一族の出身と考えられている。
出典『本郷の寺院』より
天然寺は当初、湯島に所在していたと言う説もあり、江戸の振り袖火事にて、当地本郷駒込に移転したとも言われています。
安政年代の駒込周辺之図の一部拡大図、上記の図に示すように、「てんねん寺は毎年夏になると門前の薬師堂に講釈師(せん蝶)が出るので涼みがてらの人が大勢集まって、毎晩賑やかなり」と伝えています。
時代は過ぎ、大正12年の関東大震災に遭遇し、土蔵造りの本堂は当日の激震には耐えられたものの、本堂の瓦を直ぐに降ろす事が出来無かった為、余震も作用しその荷重に耐えきれず10日後に倒壊しました。
その後、努力を重ね本堂を再建し、このお寺のご本尊として来迎立像の阿弥陀如来を安置いたし、その慈顔温容は常に檀信徒の深い尊信帰依の的となっていました。口伝えによれば、それまで度々受けた火災震災にもその都度不思議なことにその厄を逃れたとのことでした。
やがて、第2次世界大戦の際東京の空襲は必至とみられたので、境内の一隅に防空壕を仮の安置所と定め、ご本尊に遷座いただきましたが、しかしながら、先代住職の3回忌法要の為、ご本尊を防空壕より本堂へ暫く安置していた矢先、昭和20年2月25日、東京は2回にわたり大空襲に見舞われ、重大な被害を受けるに至りました。このため駒込一帯は火の海と化し、当寺にも十数発の焼夷弾が落下し必至の消火作業もその甲斐もなく、ご本尊を取り出すひまさえなく、ほかの什宝とともに烏有に帰してしまい、何とかして尊像の片鱗なりとも尋ね廻ったが探し出すことは出来ませんでした。数日後の雪の朝、なんと水鉢の中に雪に覆われたご本尊を見出すことができたのであります。大きな損傷をうけてはいるものの、まぎれもなくご尊像でありました。これは「火災発生の際の異常現象のなせるわざ」と人は言うかもしれません。しかしながら、灼熱の炎に包まれ、崩れ落ちる棟木の下に共に焼け失せても何の不思議もないはずなのに、それにもかかわらず本堂内陣から30メートルも離れた、偶然のたまものとのみ言い切れるのでしょうか。どうしても、それだけであるとは思いきれないものがあります。【天然寺に関する資料より】
現在本堂に安置されている阿弥陀様の胎内には、戦災に見舞われても厄を逃れたこの阿弥陀様が納められ、江戸時代からの多くの人々が今日まで、信仰の対象として支えとなっています。