浄土宗 天然寺

メニュー

背景画像

浄土宗の声明・声明の歴史

雲

浄土宗聲明の概説

声明とはインドから中国を経て日本に伝承された仏教古典音楽であって、「南無阿弥陀仏」という名号や経文の一節に曲節をつけて唱える偈頌をいいます。偈頌とは偈ともいい、梵語ではgatha頌と訳し、経及び論などの中に詩の形で仏徳を讃嘆し、教理を述べたものをいいます。インドの詩型では梵讃、中国の詩型では漢讃があり、日本の和讃等も声明を意味します。このように声明は仏教儀式の時に唱える声楽のことなのです。この声楽家たちのことを声明衆といい、声楽家のことを声明師、あるいは唄師と呼んでいます。

私たち声明愛好会が所属する縁山流を例に取ると、縁山流とは、芝増上寺の山号が三縁山なので、それを略して縁山と呼び、その流れを縁山流というのです。増上寺は徳川家の菩提寺として江戸時代に隆盛を極め、浄土宗の大本山となりました。それにともない縁山流声明が盛んとなったのです。しかし、徳川家の政権交代と共に、また明治の廃仏により一時は声明も衰微しましたが、増上寺山内・安養院住職千葉満定師等の努力により、法然上人七百年大遠忌(明治四十四年)を期として声明の復興が図られ、声明の研究錬磨が盛んとなりました。しかし第二次大戦後のどさくさの空白時代には、伝承者の唄う機会が少なかったり、世の中のスピード化と共に、その法要形態が簡略化されるようになり、あるいは声明の一部が全く唄われなくなったり、あるいは前半の部分だけが唄われるようになり、忘却した部分が多くなりました。しかし近年になって再び声明の復興が叫ばれ、また日本の音楽の歴史の上では、仏教音楽から他の音楽が派生していったのですが、それが黛敏郎氏等の音楽家たちの注目するところとなり、国立劇場での天台、真言、浄土等の声明の公演が実現され、また日比谷公会堂において、浄土宗の声明が発表されるようになりました。今や若手が多く胎頭したとはいえ、数多くの曲目を一人で唄える伝承者の数はわずかで、若手の人達のなお一層の努力が叫ばれています。以下浄土宗声明の歴史及び声明の理論と実際について概説するとともに天台声明伝承の祖山流、十夜法要と引携阿弥陀経の鎌倉流、縁山流声明の成系過程について、さらにはCDに吹き込んだ声明の一つ一つについて解説してみたいと思います。

掲載メディア

『浄土宗新聞』に掲載されました

浄土宗新聞
拡大してご覧ください

浄土宗の声明のご紹介

声明という語は梵語sabda-vidyaの漢訳で、インドでは古代婆羅門教徒が一般教養として習得しなければならない五明の一つをいいます。五明とはインドの学問を五種に分類したもので、声明(言語、音韻、文字を明らかにする学問)、工巧明(諸種の工芸、技術、暦数に関する学問)、医方明(医学、薬学など医術を明らかにする学問)、因明(正邪を考究して真偽を明らかにする学問、いわばインド論理学)、内明(仏教の真理、特に自宗の義を明らかにする学問)の五つをいいます。これによってわかるように声明という語は、インドでは文字、音韻、語法等の学問の意味だったのです。中国では文字、音韻、語法等インドと異なっている関係で、五明の学習は行われなかったのですが、唐の時代に玄装三蔵等が梵学を伝え、更に密教の流伝によって梵字、悉曇の学が勃興したように、声明の語はやはり言語の音韻学的性格のものであったのです。一方、円仁の「入唐求法巡礼行記」には、中国にも梵唄とか梵と呼ばれる音声があったことが書かれています。これら梵唄とか声明とかの語が日本にやってきて、声明という語が梵唄より仏教音楽の歌詠として広く用いられるようになったのは、平安朝期のことでした。最澄、空海が入唐して悉曇の法を伝え、東寺においてその学習が行われた時期もありましたが、その後は唯、梵字の書写や梵讃等の読誦が目的となり、また古くより梵讃等の諷唱歌詠の法が伝えられていたので、声明の名称はついに本来の意義を離れて、梵唄と同義に用いられるようになったのです。虎関師錬の「元亨釈書」第二十九音芸志には「声明とは印土の名であって五明の一つである。支那(中国)では偏に梵唄という。本朝(日本)では遠く印土の名をとる。」と記されています。しかしながら鎌倉期の大学匠東大寺凝然は「声明源流記」に、我国の声明を論求して、「日本の声明は印度五明の随一としての意味とは異なるが、音韻を精しく理解することは彼の印度の声明に似る」と言っています。声明の源流を考える時、梵曲を声明と称しても全く不相応の名でないことがわかります

「元亨釈書」巻29音芸志によれば、中国の声明は曹陳王により端を発するとあるように、声明音楽として梵唄を製作整理されたのは、魏の文帝黄武4年(225)武帝の第四子陳思王曹植です。文学の大天才であった曹植が山東省泰安県にある魚山に遊んだ時、空中に梵天の響を聞いて梵唄を作ったということです。(法苑珠林巻36、仏祖統紀第35、魏志巻19、広弘明集巻5、釈氏要覧上、梁高僧伝巻13)。このように陳思王曹植が梵唄形式の端を開き、その後、多くの声明研究家が種々改良を加え、隋を経て唐に至り、声明の開花を見るに至ったのです。唐代以前には康僧会が梵唄を伝えた人として有名であり、帛法橋は「晝夜諷詠して哀婉神に通じ、年九十に至りしも声はなお変らず」と「高僧伝」の経師篇に伝えています。経師㊟(1)篇にはその他、支曇籥(晋)、康法平(宋)、僧𩜙(宋)、道彗(宋)、智宗(宗)、曇遷(斉)、曇智(斉)、僧(斉)、曇憑(鼻)、彗忍(斉)等の経師と呼ばれる法儀家が名を連ねています。また唐代の智昇は「集諸経礼讃儀」を撰述し、法照は五会念仏を勧め、善無畏は密教儀式を示すなど、唐代(618~907)には国家の支持もあって声明も隆盛となったのですが、武宗の845年(会昌5)の弾圧以降振わなくなったのです

㊟(1)〔経師〕経文読誦吟諷する法師をいいます。

奈良時代になって遣唐使の派遣と唐僧の来朝にともない、法会儀式も次第に整備されました。7720年(養老4)には唐僧道栄の音曲に基づいて「天経唱礼」㊟(2)を正す詔勅が出されています(「続日本記」)。736年(天平8)には道璿が菩提仙那と共に来朝し、752年(天平勝宝4)東大寺大仏開眼供養の時の呪願師となっています。この東大寺大仏開眼供養には、梵音200人、錫杖200人、唄10人、散華10人とし、同天平勝宝6年の戒壇院供養には梵音32人、錫杖32人が参加(「東大寺要録」)とあり、すでに梵音、錫杖、散華、唄といった四箇法要が厳修されています。

平安時代になると、最澄や空海が入唐して、それぞれ天台、真言の二宗を興し、その教義と共に法儀を伝えましたが、当時はなお南都諸宗と天台真言の二宗との声明に多くのへだたりはなかったのです。なぜなら794年(円暦13)九月延暦寺供養会の時に、東大寺、法隆寺、元興寺、大安寺の諸師が比叡山の職衆と共に四箇を唄っています。また824年(天長1)9月大講堂供養には西大寺や薬師寺の職衆と比叡山の式衆が共に修行しています。また834年(承和1)3月西塔院供養には、空海が六弟子をしたがえ、東大寺安恵も共に比叡山の職衆と四箇法要を厳修しています。凝然の「声明源流記」にも、四箇法要は古来通行の規式であると言っています。

㊟(2)〔転経〕 大般若を転読し、表白終った後、唱礼師が五悔、五大願等の文を唱えることをいいます。

南都諸宗、天台宗、真言宗の声明がそれぞれ次第に離れていきました。そのうち真言声明が確立したのは、空海の弟子の新雅から五代目に当る寛朝からと言われます。寛朝(916~998)は、のちに真言声明中興の祖と仰がれるように、諸声明を整理し、墨譜を附し、諸儀式の声明を制定し、仁和寺にその流儀を伝えたのです。一方、寛朝の弟弟子に当る元果は醍醐寺にその門流を築きました。元果の六代目の弟子に中ノ川実範がいますが、その弟子の宗観は大進上人と尊ばれ、その門にあった観験らの派を進流と称したのです。「魚山私抄」下によれば、1147年(久安3)に鳥羽帝の第五皇子覚性法親王の時に、仁和寺大聖院に於て、定遍権僧正、能覚法印、観験上人等の碩徳十五人が会合され、真言声明を統制し、各派を判然と区別されたのです。それを図示する と、

第四節 真言宗の声明
拡大してご覧ください。

となり、三派のうち相応院流を更に二派に分け、都合四派を制定しました。このことは「密宗声明系譜」「唯密声明諸歌口伝」にも縷術されています。1233年(貞永1)高野山三宝院の勝心の懇請によって、観験の甥弟子に当る慈業が進流を伝え、それより高野山の声明を南山進流といいます。

其後、醍醐流は早くから行われなくなり、菩提院、西方院流も衰微し、現在は進流のみ、すなわち、南山進流の声明として存続しています。今に伝えられる仁和寺、醍醐寺の声明は進流と多少の相違が認められますが、別に一派を形成する程のものではありません。

天台宗の声明は慈覚大師円仁に始まると言うのが通説となっています。これは慈鏡の「声訣書」の中、顕流智明伝来事の條に「慈覚大師入唐求法の時かたわら是の法を伝う、智証大師帰りてこれを付す」とするのが根拠となっています。しかし、伝教大師に於ても帰朝後809年(大同4)2月一乗止観院にて法華三昧を厳修したと伝えられ、また「元亨釈書」には十講法会㊟(3)を立てて灌頂の相伝があったと伝えていますが、その確実な記録としては不明なのです。「入唐求法巡礼行記」には、慈覚大師円仁は838年(承和5)入唐して揚州赤山院にて声明の法を学び、五台山竹林寺に登って法道和尚から当時流行の法照の五会念仏及び引声阿弥陀経の法を受け、十年に及ぶ中国での留学を終えたのです。そして、唐代の仏教儀式を研究錬磨し、それまでの奈良声明の他に、密教系と浄土系の方式を伝えたのです。さらに比叡山三世座主となった円仁は、教学の画期的発展を行うと共に、声明においては引声念仏を相承され、その他五箇の秘曲と称せられる長引九條錫杖、独行懺法、羅漢勸請、長音供養文、梵網戒品を伝え、また云何唄、始段唄、異説唄、譜賢讃、千手教化、散華、警覚真言、三十二相、例示懺法の秘曲等を伝えたと言われるように、声明形式を確立されたことは日本の声明史上、大なるものがあります。円仁の門下に智証大師円珍、湛芸、安芸、安恵、相応、日蔵らがおり、円珍はのちに園城寺を創建して、寺門流の伝統を築いたのです。安恵の門下には安然がおり、安然は悉曇、声明に通じ「悉曇蔵」を著わして音階の説を立てたのです。

慈覚大師以後の相承について「元亨釈書」巻29には、慈覚、智証、相応、浄蔵、慈恵、源信、覚超、懐空、寛誓、良忍と相始者次第しています。このうち、第五代慈恵大師良源は論議の創始者として、また声明史、日本仏教史上、価値ある資料となっている「本覚讃」の著作があり、第六代源信(942~1017)は、往生要集六巻を作り、浄土教の信仰を鼓吹し、他に多数の著作があります。中でも声明について見れば、「六道講式」「極楽六時讃」「天台大師和讃」「来迎和讃」「山王和讃」「弥勒讃」等多くの講式、和讃の製作があり、後の永観、明恵らの諸講式に大きな影響を与えたのです。第七代覚超は「弥陀如来和讃」を残されました。第十代良忍(1072~1132)は、天台声明中興の祖といわれるように、天台声明を統一し大成された方であります。すなわち鳥羽天皇天仁2年(1109)大原に来迎院を建立して声明の根本道場となし、融通念仏を唱導しながら、六流に分かれていた諸声明を統一し、墨譜を畫畫した功績は不滅のものでありましょう。彼の改革した一つには、従来使用した五音博士を目安博士と称する音符に代えたことです。これについては、「博士について」の項で述べたいと思います。このように良忍によって、天台声明は延暦寺から大原に移って大原流と称せられたのです。良忍の門には頼澄を筆頭にして後白河法皇に声明の秘曲を伝授された家寛がいます。さらに永縁ら十高弟がいます。頼澄の門には玄澄、有安、後白河院がいて、家寛の門には智俊、湛智、宗快と次第し、大原の主流をなしたのです。他方、永縁は勝林院に本家を構えました。こうした大原の地は別名「魚山」ともいわれますが、これは中国声明の聖地「魚山」になぞらえたもので、大原の地は比叡山の西北に位し、中国天台山の西北なる大原山に擬して名づけたといわれ、呂の川、津の川の清流に加え、幽閑の地であり、そうした「魚山」の雰囲気をかもしだしている場所でもあるからです。この大原声明の流れが、のちに浄土宗、浄土真宗、日蓮宗の声明へと発展して行ったのです。

㊟(3)〔十講法会〕無量義経一巻、法華経八巻、普賢経一巻の十巻を五日十座に講ずる法会をいいます。

宗祖法然は、師の叡空から天台を学び、四修三昧を修したことは「勅伝」に記されています。また師の叡空は魚山大原声明の祖と仰がれた良忍の高弟であり、声明の達者でもあったのですから、法然が叡空から声明の薫陶を受けたのは当然です。「勅伝」巻9の如法経修行の條によると、法然が後白河法皇と共に如法経の導師を勤められ、錫杖及び懺法を句頭されていることは、その証拠を示すものであります。また真如堂の引声念仏を六代の静真より相承されたと「脈譜」に伝えています。法然は専修念仏を唱導された後も、引声念仏を修され、往生礼讃を門弟と共に行っていますが、こうしたことは浄土宗音声の基本となっているのです。

浄土宗の声明には祖山流(知恩院)、鎌倉流(光明寺)、縁山流(増上寺)の三つの系統があります。以下それについて述べてみたいと思います。

(イ)祖山流(知恩院)は、天台宗大原流を踏襲したもので、比叡山に近いため、常に天台宗と交流し、指南を仰いだのです。その結果あまり大きな相違は見られず、ただ発声法に多少の相違が見られる程度です。すなわち、祖山流は大原流声明よりテンポが長く、声も大きくなっているのが特徴とされています。

(ロ)鎌倉流(光明寺)は、光明寺八代観誉祐崇が、人皇百二代後土御門天皇明応4年(1495)に宮中に召され、37日の間、阿弥陀経を講説され、更に京都黒谷にある天台宗真正極楽寺真如堂の例時作法、引声阿弥陀経、引声念仏を、真如堂の大衆と共に行われ、のちに天皇の勅許を蒙りて、光明寺に移して引声阿弥陀経、引声念仏の十夜法要が毎年営まれるようになったのです。

観誉祐崇より光明寺に伝えられた十夜法要も、二百有余年後になると衰微し、中御門天皇亨保11年(1726)常陸の瓜連常福寺の義誉観徹が光明寺五十七代を継がれ、十夜法要の復興をはかられたのです。「刻引声阿弥陀経跋」によると、義誉観徹は、亨保10年三人の弟子を京都に使わして、引声阿弥陀経を研究させたのです。それ以来今日まで、古式による十夜法要が存続しているのです。

この十夜法要は、例時作法の差定より抜粋して、十夜法要の差定となったようです。すなわち、例時作法の差定は、

三礼/三帰/七仏通戒偈㊟(4)(仏教の戒・倫理を説く偈)/黄昏偈/六為(四恩三有㊟(5)に廻願する)/四奉請/甲念仏/阿弥陀経/甲念仏/合殺(引声念仏のこと)/回向/後唄

と次第し、初夜及び晨朝の差定は、

三礼/七仏通戒偈/初夜(晨朝)偈/九声念仏(引声念仏と調子が類似)/神分㊟(6)霊分㊟(7)祈願/大懺悔/五念門

の順で次第しています。一方、十夜法要引声の差定は、

三礼/四奉請(登高座 洒水)/甲念仏(前伽陀)(献供)/阿弥陀経(一節)笏入る/甲念仏(後伽陀)/回向/五念仏(晨朝礼讃偈)香版行道始める/引声念仏 香版行道続く/六字詰念仏 着座する/十念/授与十念/三礼

と次第します。今日も10月13日、14日の日中法要はこの差定にて厳修されています。明治時代は十夜法要を10月6日より15日までの10日間、厳修していましたが、現今は12日初夜より15日晨朝までの法要となっています。初夜及び晨朝法要差定は、

三礼/四奉請(譜節も簡なるもの)洒水 献供/甲念仏(譜節も簡なるもの)/阿弥陀経 全部割笏にて香版行道/引声念仏/六字詰念仏/十念/授与十念/三礼

という法要次第で厳修されています。

(ハ)縁山流(増上寺)声明は、天正18年(1590)に徳川家康公が関東に入城して、増上寺が徳川家の菩提寺として幕府の庇護を受けるようになってから、順次縁山流独特の声明となって発展していったのです。増上寺第十二代譜光観智国師存応は、家康の厚い帰依を受け、家康の愛好した声明には特に注目し、徳川家法要に際し注意を払ったのでした。1608年(慶長13)9月、存応の弟子廓山は、家康から、家康の生母水野氏の菩提寺伝通院に招請されています。そして寺領三百石を寄進され、十八檀林の一つとし、所化三百人を附属されています。廓山は師の存応と共に、しばしば江戸城において法問を行い、厚い信頼を得ていたのです。同年11月幕府は、廓山等を江戸城に召し、日蓮宗日経と論議させ、廓山は浄土宗側を代表して勝利をおさめました。以後、家康の一層の信頼を得たのです。廓山は伝通院入山後、幕府と縁山の要望に応えて、了的と共に南都へ趣き、法相宗を学び、東大寺、興福寺の法式声明を調査し、法儀の研究につとめ、浄土宗法式が形成されましたが、なお大法会には魚山声明を用いていたのです。1614年(慶長19)8月、伝通院殿水野氏十三回忌法要に際し、家康の要望に応えて法式に声明を行じ、これ以後、徳川家の法要には声明を欠くことがなく、次第に山内に声明研究家が増加していったのです。

寛永年中(1624~1643)幕府老臣酒井雅楽頭忠世は、将軍家の意を受け、増上寺側と協議し、京都黒谷の名手貞保、戒順、秀白等を縁山に招待したのです。貞保は月窓院、戒順は常行院を開いて、山内に伝承されていた宗祖法然伝承の往生礼讃及び引声念仏といった声明と合流し、これを縁山声明と称していました。

増上寺二十三代遵誉貴屋は、1652年(承応1)祟源院殿二十七回忌法要に際し、声明儀式の整頓の必要を感じ、また将軍家菩提寺として権威を保つため、大原の向ひ坊、恵隆僧都を招きました。1653年(承応2)には、恵隆僧都は名手十余名を伴って来山されたのです。その中で林的、雲貞、源良は特に有名で、林的は光学院、雲貞は華養院、源良は隆祟院を山内に開いています。こうして増上寺山内坊中寺院一体となって、増上寺独特の声明を完成する努力がなされ、その結果、今日のような大原流声明を基調とした豪壮でしかも幽韻な、はぎれのよい関東流声明を確立し、将軍家菩提寺声明として教界を風靡するに至ったのです。幕府はこれに応えて、山内に声明長屋といわれる練習道場を造り、一千石を与えてその盛行を期したのです。

縁山弥陀懺法は仁和寺密唄の精式を伝えるといわれますが、天保年間、縁山に留学された第六代門跡尊超法親王は、増上寺において、たびたび句頭役を務められ、その声明は異彩をはなち、天下無双と讃えられたのです。その後、増上寺声明は三十坊の声明衆の伝承によって継続され、また坊中三十坊は声明式典の器でないものは住職できなかった程、精進し、その整頓された関東流声明を明治維新まで伝えていったのです。なお、声明は徳川家法要のみ修行されたのですが、元禄十年正月円光大師号下賜御忌会と勅会には勤修されるようになったのです。

明治維新には、時世の変遷により、法式及び声明も衰頽の一途をたどったのです。その間およそ50年、明治6年(1873)12月31日夜半、増上寺は江戸時代初期の代表的文化財であった大殿を狂人の放火で焼失したのです。それにともない鐘樓堂、台徳院殿御霊屋、旧番所等を灰盡と化したのです。その後も再建された大殿が、また明治42年4月1日に出火し、大殿の他、護国殿、大方丈、通天橋、飛雲閣を全焼したのです。そうした増上寺の災厄もあってか、声明も苦難の道をたどりました。しかしながら明治仏教の巨匠福田行誠は、法要儀式に注意を怠らず声明道を策励させたのです。声明の達者としては、明治初期から中期までは、浄運院貫学が知られ、中期には、別所亮迪、小篠隆進、千葉寛鳳、真野観堂らが声明の達者といわれ、この中、特に千葉寛鳳は山内広度院、安養院に住職し、当時の法式研究家だったのです。その養子千葉満定は師の法式研究を継いで明治末期及び大正、昭和にかけて縁山法務の職にあり、そのかたわら、法式の実務指導にあたり、特に音声方面において活躍され、一家の風格をなしたのです。師は一宗法要の制定に、伝統保持に努力され、また師を中心とした東京法式会は「浄土宗法式精要」、「浄土宗法式大観」、「浄土宗法要及び声明」、「礼讃声明音譜」(大正13年9月)(法式の洋楽譜の作成)といった法式学、音声楽についての編著を生み、今もなお私たちの教材として欠かせないものなのです。

師の門下には、津田徳成、堀井慶雅、八百谷順応等の俊足が輩出し、後進の指導育成に努力されたのです。また中野隆元は明治、大正、昭和期にまたがって、浄土宗教師として大なる働きをされ、そのかたわら、千葉満定と共に「法要儀式精要」の編著を昭和八年刊行されています。これは浄土宗教学体系の中に組みこまれ、近年再刊されています。

法式協会は「礼讃声明音譜」作成後、「宗定法要集」「礼讃声明集」を引続いて発刊し、統一と流伝のための努力がなされています。また堀井慶雅を中心として、東京法式会有志は、第二次大戦に突入した昭和十七年二月、縁山流声明を主とする浄土宗法式音声の録音を行っています。ところが、そのほとんどが戦災のため焼失し、残ったものは音盤の品質不良、雑音の甚だしいものばかりでした。しかし、大戦後20年を経た昭和40年4月、照善寺田丸徳成師は増上寺御忌唱導師を勤められ、その記念として絶本となっていた「礼讃声明音譜」を再刊し、引続いて堀井慶雅を中心とした「縁山流声明録音」の再生と共に、脱漏分の声明を新たに加えて「浄土宗声明音譜」として、昭和40年12月に完成されています。

昭和46年4月17日には釈尊隆誕花まつり特別公演が挙行され、読売新聞社、財団法人全日本仏教会、大本山増上寺が後援者となって、浄土宗の声明、涅槃交響曲(作曲指揮、黛敏郎)の公演があり、そこで「縁山流声明」は好評を博しました。

昭和46年10月1日、2日には国立劇場にて第六回公演「引声」の声明公演があり、真如堂と光明寺の引声が催され、真如堂と光明寺の引声の相違が聞く者に感銘を与えました。これには大本山増上寺式衆の応援もありましたが、鎌倉流の引声の特徴をいかんなく発揮されたのです。

昭和49年には宗祖法然が43才の時浄土宗を開かれてより800年となり、総本山知恩院並に各大本山において、浄土開宗八百年慶讃法要が厳修されました。また同時に、浄土宗関係の書物も多く刊行され、声明においては、浄土開宗八百年記念として「念仏」という表題で浄土宗の声明が録音されています。そこには、祖山流(知恩院)のものと、縁山流(増上寺)のものとが合わせレコードに吹き込まれました。増上寺も昭和20年に戦災に遭遇し、またまた大本堂その他を焼失してしまったのですが、昭和49年大本堂が完成し、開宗八百年記念に盛大な法要が営まれました。その後も毎年4月14日、15日、16日の3日間行われている御忌法要のために、声明の習練が行われていますが、声明を実際に唄う機会がもっと多くある事が望まれます。

平安時代末期に良忍が出て、円仁以来六流に分かれて伝承された声明を統一し、大成されたことは前にも述べました。次の鎌倉期になると、2人の天才的声明家が出て、声明に一大変革をもたらしました。良忍の門下は家寛、智俊と次第しますが、その智俊の弟子蓮入房湛智が出て、声明に雅楽の理論(特に横笛の譜)を導入して一流を起し、それを新流と称したのです。この湛智はこの時期最大の名手であり、声明のみならず当代音楽全般にわたって精通していたことが知られ、その著作には声明目録、声明用心集、声明集の三部があり、新流における声明の全要領が明かされています。「野守鏡」によれば、天台声明の中心地である大原声明の旋律が大きく変ったのも、もとはと言えば蓮入房という人がいて、世俗の音楽に似せて仏教聖歌をやりだしたからであり、平安時代の中期に出現した大家の良忍の貴重な伝統が失われてしまったと述べています。一方、やはり智俊の弟子であり、古くからの伝統に忠実であった蓮界房浄心がいます。この浄心の派を古流と呼びますが、この浄心は勿論声明の名手であり、口伝口授を貴んだのでした。この新流、古流という二派は、互に論陣をはったのでしたが、古い伝統を正しく後世に残そうとする古流がいくばくもなく亡び、逆に古格を必ずしも残そうとしないで、時代の要求に相応して変化を持たせていった新流が今日まで残ったのでした。このように、その後の大原流声明は湛智の流れを汲む声明となり、円仁以来から平安末期までの声明の古格は、大原流にはほとんど消失したのです。

ところが、引声阿弥陀経だけは、このような大原声明に左右されないで、円仁以来の古格を残して今日まで伝承されて来たところがあります。それが鳥取の大山寺、黒谷の真如堂、鎌倉の光明寺の三ヵ所を挙げることが出来ます。すなわち、引声は比叡山や大原をはじめとして広く行われていたはずですが、多くは時代と共に廃絶の状態となったのです。今に残る延暦寺や大原寺の魚山流引声阿弥陀経は、湛智の行った変革をこうむって、円仁以来の古格を残すものではないのです。ところが、大山寺の伝承だけは、一般の大原流声明とは全く異なり、湛智の変革に遭遇してない唯一の確実な所伝であると考えられています。また、真如堂の所伝については、それが古来鈴山流と呼ばれたのですが、はたして魚山流、大山流のいずれに近かったものか、あるいは独自のものであったかは、今日もなお判然としないのです。真如堂のものが室町時代に鎌倉の光明寺に伝承され、その後光明寺では伝承があいまいとなり、江戸時代に至り再び京都より伝承して伝えているのが今日の光明寺の引声であります。ところが明治になって真如堂のものがあやしくなって、多紀道忍氏が大山流を学んで再興したのです。今、大山流引声阿弥陀経の跋文によってその過程を知ることができます。その大意㊟(8)を示すと、

「明治四十四年六月に安楽律院(比叡山)の矢野霊澄師についてこれを相承した。師は長らく大山寺にあってその引声を伝えた稀なる人であるが、平素これを伝えるべき弟子がないことを歎かれていた。そこで私は同志をかたらって、この年の五月一日から六月二十五日の間にこれを相承し、譜本を浄写した。その同志とは大館禅操(大山寺)、竹内道忍(のちに多紀姓となる)、岩田教円の三名である。云云」

とあるように、大山流が多紀氏を介して真如堂に伝承された過程が察せられます。従って今日真如堂に行われている引声は大山流であり、古来真如堂で行われていた引声の少なくとも江戸時代の姿が今日鎌倉光明寺に残っている引声ということになります。そして大山流の伝承は大館禅操氏の死亡によって、今から四十年前に亡びてしまったのです。従って今日円仁以来の古格を残しているものは、大山流の引声の伝承を受け継いだ真如堂の引声が、確実に円仁以来の古式を物語るものということになります。

今日の真如堂に伝わる引声と鎌倉光明寺に伝わる引声を比較してみると、真如堂の譜本と光明寺亨保十年版の譜本とは、あまり似ていません。ところが真如堂の短声の譜本と光明寺の引声の譜本とが酷似しています。この点をどう理解すべきでしょうか。慈覚大師が伝えたという阿弥陀経は、引声と短声があったことは知られています。しかし、理解に苦しみますが、順当に考えるならば、真如堂から伝習して来て光明寺に伝承されたのは短声であったが、それを引声として扱かったのであろうと思います。関東の言葉は、はぎれよく、縁山声明で言えば、「四智讃」を例にとると、大原流では「オーン、バー、サー」と各音声が流麗な波をなしているのに対して縁山流では「オンバサー」と続けてしかも強い当りで、一息で終り、そのテンポは大原流の三分の一になっています。このように関東では、短声流ともいうような早いテンポが好まれていることを考えると理解できるような気が致します。

なお、真如堂においては、引声は「引声法要(10月10日~17日)」、十夜念仏は「お十夜法要(11月5日~15日)」と各々別の日に行われていますが、光明寺では引声と十夜念仏が同じ「お十夜(10月12日~15日)」として行われています。

以上のように、声明の歴史をインドより中国を経て日本までの経過をたどり、縁山流声明が徳川時代に至って、徳川家の庇護のもとに、独特の声明となっていった過程を述べました。そこには、真如堂より伝承された光明寺の十夜法要も、増上寺で行われている御忌法要も、引声阿弥陀経、引声念仏といったたぐいの「引声」が土台となって法要儀式が営まれていることに気づくのです。そこで第七節に至り、引声の伝承過程を取り上げ、大山寺、真如堂、光明寺の引声が互に関係しながら伝承されて来たこと及び、大山流の引声が、円仁以来の古格を残すものであることを述べ、しかも、光明寺の引声が、真如堂の短声と酷似していることを述べました。これは縁山の引声においても同じことが言えるのです。かくして、私たちは声明の歴史を一応理解できたことと思います。次には声明の理論と実際について述べたいと思います。

㊟(8)〔その大意〕「大山流引声阿弥陀経の跋文」の大意については、国立劇場第六回声明公演「引声」の解説書中、片岡義道氏の「引声について」に述べています。